「データを見て判断しよう」
ビジネスの現場で、何度この言葉を聞いただろうか。
売上、利益、平均値、グラフ、前年比──
数字は十分に揃っている。
それなのに、多くの人がこう感じている。
「数字は見ているけど、結局どう決めればいいのか分からない」
これは能力不足ではない。
統計を知らないからでもない。
問題は、数字の“使い方”を誰も教えてくれなかったことにある。
数字を見ているのに「決められない」理由
情報が足りないのではなく「軸」がない
判断できないとき、人はこう考えがちだ。
-
もっとデータが必要なのでは?
-
別の指標も見たほうがいいのでは?
会議や資料作成の場面で、
こんな言葉が頭をよぎった経験はないだろうか。
だが実際には、
情報はすでに十分すぎるほど揃っていることがほとんどだ。
売上も、利益も、前年比もある。
平均値やグラフも用意されている。
それでも判断できない。
問題は「データが足りないこと」ではない。
足りないのは、
「何を基準に決めるのか」という判断の軸だ。
判断の軸がないまま数字を見ると、
人は無意識のうちに“迷走”し始める。
まず、
見る数字が毎回変わる。
昨日は平均を見ていたのに、
今日は中央値、明日は最大値。
「より正しそうな数字」を探して、視点が定まらない。
次に、
都合のいい数字だけを拾ってしまう。
本当は決めたい方向が先にあって、
それを後押ししてくれそうな数字に目が行く。
反対の数字は「条件が違う」「例外だ」と無意識に遠ざける。
そして最後に、
感覚で決めてしまう。
「いろいろ見たけど、まあこんな感じだろう」
「数字的にも悪くはなさそうだ」
こうして、
数字をたくさん見た“後”に、結局は勘で決めるという状態に陥る。
ここで重要なのは、
これは能力の問題でも、意志の弱さでもない、ということだ。
判断の軸がない限り、
どれだけ多くのデータを集めても、人は決められない。
むしろデータが増えるほど、
選択肢が増え、迷いが深くなる。
だからこそ必要なのは、
「もっと正確な数字」ではなく、
「この判断では、何を一番大事にするのか」
という基準を先に置くことだ。
データが多いほど判断が止まる心理
データが増えるほど、人は合理的になると思われがちだ。
だが実際には、しばしばその逆が起こる。
データが増えると、
-
選択肢が増える
-
比較すべき項目が増える
-
見落としへの不安が強くなる
結果として、
「まだ判断するには早い」という感覚が生まれる。
選択肢が増えるほど、決められなくなる
選択肢が1つしかなければ、判断は不要だ。
2つなら比較すればいい。
だが3つ、4つ、5つと増えていくと、
-
どれを選んでも失敗する可能性がある
-
もっと良い選択肢があるのでは、という疑念
-
今決める必要が本当にあるのか、という迷い
が同時に立ち上がる。
これは優柔不断だからではない。
選択肢を真剣に考えている人ほど起きやすい反応だ。
比較が複雑になると、判断は止まる
データが増えると、
比較は「良い・悪い」では済まなくなる。
-
Aは平均が高いが、ばらつきが大きい
-
Bは安定しているが、伸びしろが小さい
-
Cは一部の数字だけが極端に良い
どれも一長一短で、
単純な優劣がつかなくなる。
ここで多くの人は、
「まだ分析が足りないのではないか」と考え、
さらにデータを集めに行く。
だが、比較が複雑な状態では、
データを足しても整理は進まない。
決断の責任が、数字と一緒に重くなる
もう一つ、見落とされがちな要因がある。
それは、
データが増えるほど、決断の責任が重く感じられるということだ。
-
これだけ分析したのに、間違えたらどうする?
-
数字を見た上での判断は、言い訳ができない
そう考えるほど、
「今は決めない」という選択が魅力的に見えてくる。
「分析麻痺」に陥りやすいのは、真面目な人
この状態は
「分析麻痺(analysis paralysis)」と呼ばれる。
特徴的なのは、
-
データに強い人
-
論理的に考えようとする人
-
責任感が強い人
ほど陥りやすい点だ。
統計やデータを扱う人ほど、
「十分に理解してから決めたい」
「数字で説明できる判断をしたい」
と考える。
その結果、
理解しきるまで決めない、という罠にハマる。
判断を止めているのは、データではない
ここで一つ、はっきりさせておきたい。
判断を止めている原因は、
データの多さそのものではない。
-
何を優先するのか
-
どこまで分かれば決めていいのか
この基準がない状態でデータが増えるから、
判断が止まる。
だから必要なのは、
-
さらに分析することではなく
-
「どの時点で決めるか」を先に決めること
だ。
「正解がある」と思ってしまう統計の誤解
数字=事実=正解だと思ってしまう
統計を学び始めた人ほど、
こんな誤解をしやすい。
-
この数字が正解を示しているはず
-
グラフを見れば答えが出るはず
教科書や研修では、
「正しい計算」「正しいグラフ」が重視される。
その影響で、無意識のうちにこう考えてしまう。
正しく計算された数字には、正しい結論が含まれている
だが、これは大きな勘違いだ。
統計は「事実」を切り取っているだけ
統計が扱っているのは、
過去に起きた事実の一部にすぎない。
-
どのデータを集めたのか
-
どの範囲を対象にしたのか
-
どの指標を使ったのか
その時点で、
すでに強い「切り取り」が入っている。
同じ現実でも、
-
平均を見るか
-
中央値を見るか
-
最大値を見るか
で、見える景色はまったく変わる。
統計が示すのは「答え」ではない
統計は、答えを出してくれない。
統計がしているのは、
判断のための材料を、一定のルールで整理して見せているだけ
そこに、
-
どちらを選ぶべきか
-
今動くべきか、待つべきか
-
リスクを取るべきか、避けるべきか
といった
「どう決めるか」という意志は含まれていない。
グラフが「決断」を奪ってしまう瞬間
むしろ厄介なのは、
グラフや数字がきれいに整っているほど、
ある種の「空気」が場に生まれてしまうことだ。
-
もう答えは出ているはずだ
-
この数字に従うしかない
そんな無言の前提が共有される。
グラフは「中立」に見える
グラフや統計は、
感情や意見を排した客観的な存在に見える。
だからこそ、
-
これに反対するのは非論理的では?
-
感覚で意見を言うのは失礼では?
という雰囲気が、
知らないうちに形成される。
誰も強制していないのに、
誰も逆らわなくなる。
「判断」が「説明」にすり替わる
この状態になると、
会話の中身が少しずつ変質する。
本来あるべき問いは、
-
どう判断するか
-
どの選択肢を取るか
のはずなのに、
実際に交わされるのは、
-
この数字はどう説明できるか
-
なぜこうなったのか
という事後的な説明ばかりになる。
判断ではなく、
数字をどう解釈するかが主役になる。
誰も「自分の判断」を口にしなくなる
その結果、
-
自分はどう思うのか
-
どのリスクを取るのか
といった個人の意志は、
表に出なくなる。
代わりに出てくるのは、
-
「数字がこう言っているので」
-
「データ上は妥当です」
という言葉だ。
ここではもう、
誰も決めていないのに、何かが決まっていく。
責任が、静かに数字へ移される
こうして起きるのが、
判断の責任が人から数字へ移される現象だ。
失敗したとき、人はこう言える。
-
データに基づいた判断だった
-
数字がそう示していた
だが数字は、
決して「決めろ」とは言っていない。
責任を引き受ける主体が不在のまま、
決断だけが進んでいく。
グラフが奪っているのは「判断」ではなく「問い」
重要なのは、
グラフそのものが悪いわけではないということだ。
問題は、
グラフが出た瞬間に、問いが消えてしまうことにある。
-
本当にこの指標でいいのか
-
他の見方はないのか
-
今、決めるべきなのか
こうした問いが封じられたとき、
統計は判断を助けるどころか、
判断を奪う存在になってしまう。
ここまで
「正しい数字」と「正しい判断」は別物
ここで、はっきり区別しておく必要がある。
-
正しい数字 = 計算や集計が正確であること
-
正しい判断 = 目的に合った選択ができていること
この二つは、似ているようで、
まったく別の次元の話だ。
なぜ、この二つは混同されやすいのか
多くの現場では、
「数字が正しければ、判断も正しいはずだ」
という前提が暗黙のうちに共有されている。
-
数字は客観的
-
計算は間違っていない
-
グラフも正しく描かれている
だから、
その数字を使った判断も正しいはずだ
と考えてしまう。
だが、ここには大きな飛躍がある。
正しい数字でも、判断は簡単にズレる
正しい数字を使って、
間違った判断をすることは、実務では普通に起こる。
なぜなら、
-
数字は「過去」を示しているだけ
-
数字は「目的」を知らない
-
数字は「何を選びたいか」を考慮しない
からだ。
同じ数字を見ても、
-
成長を優先する人
-
安定を優先する人
-
リスクを避けたい人
では、
取るべき判断は変わって当然だ。
判断には、必ず「価値基準」が入り込む
判断とは、
複数の選択肢の中から一つを選ぶ行為だ。
そこには必ず、
-
何を優先するか
-
どこまで許容するか
-
何を犠牲にするか
という価値基準が含まれる。
数字は、
その価値基準を教えてはくれない。
数字は、責任を取ってくれない
逆に言えば、
判断を誤ったとき、数字は責任を取ってくれない。
-
数字がそう言っていた
-
データに基づいていた
それは説明にはなるが、
判断の代わりにはならない。
責任を負うのは、
いつも数字を使った人間の側だ。
統計は「判断の正当化」ではなく「判断の補助」
統計の役割は、
判断を正当化することではない。
-
判断を代行する
-
判断の責任を引き取る
そういった機能は、
最初から持っていない。
統計はただ、
判断に必要な材料を、見やすく並べてくれるだけだ。
統計は「判断を助ける道具」にすぎない
統計は、たしかに強力な道具だ。
複雑な現実を整理し、
人間の直感だけでは見えない構造を浮かび上がらせてくれる。
だが、それはあくまで道具であって、
意思決定そのものではない。
決めているのは、いつも人間の側
統計がどれほど高度でも、
次の問いに答えることはできない。
-
何を決めたいのか
-
何を優先するのか
-
どのリスクを許容するのか
これらを決めるのは、
いつも人間の側だ。
数字は、
その判断を少しだけ楽にしてくれる存在にすぎない。
統計は「答え」ではなく「材料」
統計は、結論を出さない。
統計がしているのは、
判断に使えそうな材料を、一定のルールで並べること
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、
同じデータを見ても、次のような判断が同時に生まれる。
-
値上げすべきだと思う人
-
まだ待つべきだと思う人
-
今は動かないと判断する人
判断が分かれるのは、当然のこと
ここで誤解してはいけないのは、
誰かが間違っているわけではないという点だ。
判断が分かれる理由はシンプルで、
-
何を守りたいか
-
何を取りにいきたいか
-
どの失敗を許せるか
といった判断基準が違うだけだ。
統計は、
その違いを自動的に埋めてはくれない。
統計が万能だと思うと、判断を放棄してしまう
統計を「答えを出してくれる存在」だと思うと、
人は無意識のうちに判断を手放す。
-
数字がそう言っているから
-
データ的には正しいから
だが、その瞬間、
意思決定の主体は自分ではなくなる。
統計の正しい使い方は、主導権を握ること
統計を使いこなすとは、
数字に従うことではない。
-
自分の判断基準を先に置き
-
その判断を助けるために数字を見る
この順番を守ることだ。
統計は、
判断を代行する存在ではなく、判断を支える脇役である。
判断できる人が最初に考えていること
何を決めたいのかが先
判断できる人は、数字を見る前に必ず「問い」を置いている。
それは統計の知識というより、意思決定の順番だ。
たとえば、まずこう確認する。
-
今日は何を決めるのか
-
どの選択肢を比較するのか
-
「決めない」という選択肢はあるのか
この問いがないまま数字を見ると、
いくらでも追加のデータが出てきてしまう。
「もう少し詳しく見よう」
「念のため別の指標も」
そうやって材料を足し続けるほど、判断は遠のく。
問いが定まっていない限り、
判断は終わらない。
数字はそのための道具にすぎない
ここで重要なのは、判断の質を上げるのは
「正確な数字を集めること」ではなく、
判断に不要な数字を捨てることだ、という点だ。
判断できる人ほど、実は最初からこう決めている。
-
今日は見ない数字
-
無視する指標
-
今回の判断では重視しない条件
すべてを見ようとするほど、決められなくなる。
逆に、見る範囲を絞るほど、判断は前に進む。
統計は万能の正解装置ではない。
だからこそ、「何を見るか」と同じくらい
「何を見ないか」を決める力が重要になる。
ここから何を学べば判断できるようになるのか
判断はセンスではない。
順番と道具の使い方で、誰でも上達する。
押さえるべきポイントは、大きく2つある。
指標の選び方
平均、中央値、分散、標準偏差。
どれも重要だが、万能ではない。
重要なのは、指標を覚えることではなく、
-
何を知りたいのか
-
どんな状況なのか
に応じて、使い分けられることだ。
たとえば、
-
「典型的な水準」を知りたいのか
-
「ブレ(安定性)」を知りたいのか
-
「一部の極端な値」の影響を避けたいのか
目的が違えば、選ぶ指標は変わる。
指標は、結論を出してくれるものではない。
問いに応じて、見え方を変えてくれるレンズに近い。
比較の前提条件
判断ミスの多くは、
数字そのものよりも「比較の仕方」から生まれる。
特に多いのが、次の3つだ。
-
時期が違う
-
条件が違う
-
母集団が違う
この「比較のズレ」があると、
正しい数字を使っていても、結論は簡単に歪む。
数字を見る力とは、計算力ではなく、
比較の前提条件を揃える力でもある。
まとめ|統計は「判断を代わりにしてくれない」
統計を学んでも判断できない理由はシンプルだ。
-
統計は判断の代行ではない
-
数字は答えを出してくれない
-
必要なのは「どう決めるか」という思考の順番
数字を使える人になるとは、
数字の前に、自分の判断軸を置ける人になることだ。
次の記事では、
なぜ「平均」という数字が、
ビジネス判断をこれほど狂わせるのかを掘り下げていく。
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