これまでの分析では、原油価格と穀物価格が強く連動していることを確認した。
相関係数は r ≈ 0.833、弾性値は β ≈ 0.27、そして最大相関は同月(lag=0)である。
これらの結果は、価格の方向は速やかに共有されていることを示している。
しかし同時に、価格がどれくらい動くのか、そしてその水準がどれくらい持続するのかは、エネルギー価格だけでは説明できない可能性も示唆している。
ここで一歩踏み込んで考える必要がある。
価格調整の構造 ― 上昇と下落は対称か
価格は上昇と下落で同じように動くのか
価格は、上がるときと下がるときで同じように調整されるのだろうか。
例えば、原油価格が急上昇すれば、穀物価格も比較的速やかに上昇する可能性がある。
一方で、原油価格が下落した場合に、穀物価格が同じ速度で調整するかどうかはまだ確認していない。
価格が上昇局面と下落局面で異なる動きを示す可能性を、経済学では「非対称性」と呼ぶ。
ここから先は、この非対称性が生じ得る構造を整理する。
なぜ価格調整は非対称になり得るのか
価格は、その瞬間のコストだけで決まるわけではない。
市場価格は、現在の需給状況だけでなく、将来の供給見通しやコスト見通しを織り込みながら形成される。
つまり、価格は「今」だけでなく、「過去」と「未来」の情報を同時に反映している。
このとき重要になるのが、すでに生産され市場に存在している在庫である。
市場には、過去のコストで生産された在庫が存在する一方で、将来の仕入れコストへの期待も存在している。
企業は、過去の取得原価だけではなく、次にいくらで仕入れることになるのか、すなわち再調達コストを意識して価格を決める。
在庫があるのに、なぜ価格はすぐに下がらないのか
価格調整のスピードを考えるとき、多くの人がこう直感する。
原油価格が上昇した局面では、市場にはすでに上昇前の安い原油を前提に生産された穀物や加工品の在庫が存在している。
であれば、原油価格が下落した場合も、すでに保有している安い在庫があるのだから、食料価格は比較的速やかに下がるのではないか。
この疑問は一見すると合理的である。
価格は「いくらで仕入れたか」によって決まるように思えるからだ。
しかし価格は、単純に「いくらで仕入れたか」だけで決まるわけではない。
企業は在庫を売ったあと、どの水準で補充できるのかという見通しも考慮する。この視点が、再調達コストという概念である。
価格は再調達コストを意識して決まる
企業の価格設定は、単純な取得原価だけで決まるわけではない。
企業は在庫を販売した後、同じ商品を再び市場で調達しなければならない。そのときに必要となるコスト――これを再調達コスト(replacement cost)という。
価格設定の意思決定は、
-
過去にいくらで仕入れたか
ではなく、 -
次にいくらで補充することになるか
という将来のコスト見通しに強く依存する。
これは「機会費用」に近い考え方である。
今持っている在庫をいくらで売るかは、その在庫を失ったあとにどの価格で再取得できるかによって合理的に判断される。
原油価格が上昇する局面
原油価格が急上昇している場合、
-
手元の在庫は安いコストで取得されている
-
しかし次の仕入れは高くなる可能性が高い
このとき企業が安値で販売を続ければ、次の仕入れで利益率が急激に悪化する。
したがって、現在の在庫も将来コストを織り込んだ水準で販売されやすい。
結果として、価格は比較的速やかに上昇しやすい。
原油価格が下落する局面
一方、原油価格が下落している局面では、
-
手元の在庫は高コストで取得されている
-
しかし次の仕入れは安くなる見込み
このとき急激に値下げを行えば、在庫の評価損が確定する。
企業は通常、在庫をできるだけ現在の価格帯で消化しようとする。
そのため、価格は段階的・緩慢に調整されやすい。
なぜ市場全体でも持続するのか
ここで重要なのは、これは一社の行動ではなく、市場参加者全体の合理的行動の集積であるという点だ。
-
多くの企業が再調達コストを意識する
-
契約や値決めは即時に変更できない
-
小売価格にはメニューコスト(価格改定コスト)が存在する
これらが重なることで、
価格は上昇局面では速く、下落局面では遅くなる可能性がある。
これを経済学では価格調整の非対称性(price asymmetry)と呼ぶ。
重要な留保
ただし、これは理論的な仮説である。
本シリーズでは、
-
原油と穀物の強い同時連動
-
弾性値 β ≈ 0.27
-
最大相関が同月
までは確認しているが、
上昇局面と下落局面で調整速度が異なるかどうかは、まだ統計的に検証していない。
したがって、ここで提示しているのは「説明可能なメカニズム」であり、「実証された事実」ではない。
在庫は価格の“方向”ではなく“調整過程”に影響する
これまでの分析から確認できるのは次の点である。
-
原油価格と穀物価格は同月で強く連動する(r ≈ 0.833)
-
ラグ相関は最大でも1か月程度
▶ 原油価格は何か月遅れて穀物価格に反映されるのか(ラグ分析)
これは、価格の**方向(上がる・下がる)**は比較的速やかに共有されることを示している。
つまり、
エネルギー市場に生じたショックは、遅くとも1か月以内には穀物市場に波及している。
ここで重要なのは、
在庫がこの「方向」を決めているわけではないという点である。
方向は主に、
-
エネルギー価格
-
マクロ環境
-
需給ショック
によって決まる。
では在庫は何に影響するのか。
在庫が作用するのは、
-
価格がどの程度動くのか(振幅)
-
どれくらいの期間その水準が続くのか(持続時間)
-
どれくらい滑らかに調整するのか(スピード)
である可能性が高い。
例えば、
在庫水準が低い場合、小さな供給ショックでも市場は逼迫しやすく、価格は急騰しやすい。
一方、在庫水準が高い場合、同じショックが発生しても、市場は在庫で吸収できるため、価格変動は緩やかになる。
つまり在庫は、
価格の“遅れ”を作るというよりも、
価格変動の振幅と持続時間を調整する“緩衝材”として機能する
と考える方が、これまでの実証結果とも整合的である。
もし在庫が価格の方向を決める主要因であれば、ラグ相関はより長い時間差で最大になるはずである。
しかし実際には最大相関は同月で観測された。
このことは、在庫が「方向決定」ではなく「調整の質」に影響している可能性を示唆している。
エネルギー × 在庫 × 価格の三層構造(仮説)
ここまでを整理すると、次の構図が仮説として浮かび上がる。
-
エネルギー価格がコストショックを生む
-
在庫水準が価格変動の強さを増幅・緩和する
-
市場期待が価格調整の持続性を左右する
つまり、
エネルギーがショックの発生源
在庫がショックの増幅器
という構造である。
ただし、この段階ではまだ数量的検証は行っていない。
本稿の位置づけ
本稿は、実証の第一段階として、
-
エネルギーと穀物価格の強い連動
-
価格弾性の大きさ
-
ラグ構造の特徴
を確認した段階にある。
まだ検証していない仮説は次の通りである。
-
在庫水準が価格調整のスピードを変えるのか
-
上昇局面と下落局面で非対称性が存在するのか
-
在庫がエネルギー弾性を変化させるのか
これらは、価格構造をより動学的に理解するための次の課題である。
次の検証ステップ
次の段階では、
-
在庫率と価格の単回帰
-
在庫水準でサンプルを分割した弾性比較
-
エネルギー × 在庫の交互作用モデル
を用いて、在庫が価格調整にどのように作用するのかを検証する。
ここからは理論整理ではなく、データによる検証の段階に入る。
結論
現時点で言えるのは次のことである。
原油価格が下落しても、食料価格が同じ速度で下落するとは限らない。
しかし、この非対称性は本シリーズではまだ実証されていない。
確認できているのは、
-
方向は速やかに共有される
-
振幅と持続性は別の要因に依存している可能性がある
という構造的示唆である。
在庫が価格の方向を決めるのではなく、
価格調整のスピードや振幅を左右している可能性がある。
この仮説が妥当かどうかは、次回以降の実証で明らかにしていく。
▶ 在庫率は価格変動の感応度を変えるのか(次回)
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